以下の映像は韓国・家庭連合HPで公開されたものに、日本語の字幕を入れてくださったものです。多くの方々に見ていただけるように【拡散希望】お願いします。
(以下が日本語字幕です。それを書きだしたものです)
今度の問題は3つの側面から考えることができます。
第一番目が何かと言えば、お父様の遺言書と言われる八大教材を何ゆえに減らして、このようにするかということです。
ところで、八大教材の意味が何であるのかということをまず知らなければなりません。八大教材というのは8冊の本を言うのではないのです。
人々が普通考える時、「八大教材」と言えば、8冊の本だと考えるでしょう。
それではそうではないと言う理由が何なのか?
第一にお父様の「み言選集」は600冊以上になっています。それだけですでに(8冊には)ならないのです。
二番目に、「家庭盟誓」は本ではありません。「家庭盟誓」は天聖経の前にも書かれているし、重要な本ごとに前に入っていませんか?家庭盟誓の解説は平和神経の中にあります。平和神経の中に家庭盟誓が合わせられているのです。
これがお父様が考えた方法だということですね。
「天国を開く門 真の家庭」「平和の主人 血統の主人」も、やや小さな本です。これは経典になることができません。
もしこれを効果的にしようと考えれば、外部に出す時に平和神経に合わせて1冊として作っても恥ずかしくない本であると言えるのです。
それらの本が重要ではないということではないのです。私たちが外部の人に出す時そうだというのです。
お父様が家庭盟誓を平和神経に合したことと共に、私たちも天聖経の中に家庭盟誓の内容を入れており、お父様の講演集である平和経にも更にプラスして入れたというのです。
平和経の中に「天国を開く門 真の家庭」が入っていて、「平和の主人 血統の主人」が入っています。
そうですから(八大教材の中に)一つも抜いたものがありません。
それを更に簡便にもっと見やすく携帯しやすくすべて合わせて入れたのです。経典を経典らしく作ったというのです。
見てください。8冊の中でみ言選集はそのままあります。世界経典もそのままあり、原理講論もそのままあります。5冊が問題ではありませんか?その中に家庭盟誓は平和神経に入っているので、それは引いて4冊が問題になります。
「天国を開く門 真の家庭」「平和の主人 血統の主人」、合わせてしまえばすべて入っているのです。
天聖経と平和経2冊の中に5冊(「天聖経」「平和神経」「家庭盟誓」「天国を開く門 真の家庭」「平和の主人 血統の主人」)がすべて入っているのです。
お父様ではなくお母様がされたので、今いろいろ言っているのです。
それではお父様とお母様がどのような価値的な差があるのかというのです。
そのような人々は、お父様はとても高い位置にあり、お母様は何でもないもののように見ています。
これが問題の発端です。そこに問題があるのです。
八大教材を冊数でだけ考える観点、お父様の位相とお母様の位相を違うように見る観点から出てきたことなのです。
それでは、お父様の価値が何なのかということです。
お父様のみ言を見てください。お父様が個人的に語られたみ言は一つもありません。
すべて真の父母という名前を掲げて語られました。すべてのみ言は真の父母の立場で語られたということです。
祈祷も真の父母の名前でされました。
何のことかと言えば、お父様一人で語られたのではなく、お父様はいつもお父様とお母様が一つになった真の父母を代表して語られたのです。
お父様はお父様とお母様が一つになった真の父母を代表して語ることができて、
お母様はお父様とお母様が一つになった真の父母を代表して語ることができないのか?
その人たちが言うことは、お父様はそのようにでき、お母様はそのようにならないということなのでしょうか?
お父様が1960年に聖婚式をされましたが、その前のお父様の価値はどうだったと考えますか?
お父様は個人的蕩減しかされたことがないのです。個人的蕩減をされたのです。
40歳まで何をしたかと言えば、個人的立場でサタンを屈服させた勝利をしたのです。
イエス様とまったく同じです。
ところで新婦であるお母様を探して聖婚式をすることによって、その時から真の父母の名前を持つようになられて、聖酒式もするようになり、祝福結婚式もするようになりました。
その時から新い摂理が始まったのです。
お母様とお父様のお二人が一つにならなければ、血統転換もできないのであり、私たちを祝福させて結婚させることができないし、祝福家庭を作ることができないのです。
お父様がその次の摂理ができたのは、お母様を捜してお母様と一つになったからです。
お母様の価値とお父様の価値がプラスになって、真の父母となり、次の摂理をするようになったということです。
ですから、お父様がいくら偉いと言っても、お母様がいなければお父様の価値はないというのです。
お父様のみ言の中にもあります。
夫婦は半分にしかならないとそのように語られました。
お父様は半分にしかならないのです。真の父母の半分ですよ。お母様も半分です。
神様が見る時、お母様の価値はお父様の価値とまったく同じだということなのです。
もちろん、お父様は苦労をたくさんしました。イエス様は苦労をたくさんしませんでしたか?
お父様も同じです。サタンを屈服させた個人的な勝利条件を立てることをお父様がされたというのです。
しかし、その後にご聖婚をされることで、お母様と一つになったでしょう。一体になれば相続圏・同位圏・同居圏がすべてあるとそのように語られたのですよ。
お父様とまったく同じ同位圏に入って行くのです。一つです。同じ価値だというのです。
それで先ほど言ったとおり、お父様はいつもお父様とお母様が一つになった真の父母になった立場でみ言も語られ、すべての摂理を進行されたので、お母様もお父様とお母様が一つになった真の父母になった立場で摂理をなさることができるということなのです。その時にはいつもお父様がともにいらっしゃるということです。
だからお父様が何かをなさる時もお母様がいつも一緒に行かれたし、やむを得ない事情の時には一人で行かれましたが、いつも霊的には一緒に行かれたという条件を立ててされたのです。
同じようにお母様がなさる時にもお母様一人でなさったのではなくてお父様も霊的に一つになり、一緒にしているという心を持って、そのような条件でされているというのです。
だからお父様の価値はお母様とまったく同じだということです。
それではお父様とまったく同じ価値を持っているお母様が指示されてなされた、このことが何が間違っているのかというのです。間違った」ことが一つもないのです。
お父様が指示して私たちが「天聖経」を作ったこととまったく同じ立場でお母様がされたことだというのです。
だから誰も批判することができないのです。そして、お父様とお母様に対して私たちは批判する資格がありません。
どこの誰もできないのです。誰が父母様を批判する資格がありますか? 神様にしかありません。神様だけが父母様の名前で出来るのであり、私たちには父母様を批判する資格がないのです。権限もありません。これは完全に越権であり、サタンだというのです。何の権限があって、何の資格があって、お母様がなさることを批判し、お父様がなさることを批判することができるのかということです。これが間違っているのです。
その次には天聖経の内容を見てみましょう。きょうもある人が私に電話をしてきました。
「以前の天聖経はどうだったかと言うと神様編を例にあげれば、重要なのが出てから、次に別の違うものが出て、また、違うのが出たりして、複雑だった。後で見れば混乱する。ところで今回の天聖経の増補版はそういうものがなく、順序どおりよく理論的に展開されている」
と話していました。神様に関するすべてのものが明らかに入っているというのです。
そのために
「これは私たち信仰者だけではなく、信仰を持たない人にも役立つ。むしろその人たちがこの本を見れば、お父様の価値も分かるようになり、神様に対しても分かるようになるでしょう」
そのように言うんですよ。
「今まで私たちはお父様の自叙伝を配布したけれども、それと同じように、この天聖経を配らなければいけない。
これがこれから伝道をするのに重要な位置を占めるでしょう」
と言いました。それを読んだ人はそのように理解をするのです。
私たちは正当です。私たちが他の人の言葉を入れましたか?すべてお父様のみ言です。
お父様のみ言が600冊以上になるのに、それをすべて入れることができますか?600冊になるみ言をどのようにすべて入れますか?
いずれにせよ取捨選択せざるを得ないのです。私たちは私たちが見る観点で取捨選択をしたのです。一番相応しいと言われたことを選んで入れたのです。それが間違っているのかというのです。
皆さんは絶対そのようなことに動揺するまでもないのです。自信を持って行かなければなりません。
誰が何と言うと動揺する人は、初めからしないで下さい。私たちが今、「真の父母経」を作っていますね。これも天聖経にあったのですか?
以前の天聖経にあるものではないでしょう。これも新たにお父様の歴史などすべてのものを合わせて、経典を作っているのではありませんか?
何が間違ったことだというのですか? もっと豊富な内容を持って、もっと多くの資料を持って、作っているのに、これに対して偽作だと言えますか?
偽作という言葉はお父様のみ言を使わないで、他人の言葉を使う時に偽作になるのです。どうして偽作になりますか? お父様のみ言を持って作るのにどうして偽作ですか?
今回、私たちが作るのも私心を持ってすることではありません。今までも私たちが私心なしにしてきましたが、徹底的に私心を離れて、公的な立場ですべてのものをしなければならないと考えています。
それが私たちの長所です。私たちがそのようにすれば恐ろしいことは一つもありません。
神様の前へ行っても、心配することは一つもないのです。
(以上でおわりです)
引用 :奇 知 外 記 『原理講論』和訳研究
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