金榮輝委員長の
<天聖経増補版正しい理解と摂理的価値>に対する私たちの主張
真のお父様制定『天聖経』を守る祝福家庭協議会
2013.7.10
<天聖経増補版正しい理解と摂理的価値>に対する私たちの主張
真のお父様制定『天聖経』を守る祝福家庭協議会
2013.7.10
1.はじめに
私たちは、金榮輝委員長が、2011年9月1日に作成された<統一教36家庭決意署名書>に堂々と署名したことをはっきりとよく覚えています。神のみ旨と真の父母様の遺業(レガシー)を守るために立ち上がった顯進様と祝福家庭の義を重んじた決断と歩みを「不服従と不従順の悪意を抱いて挑発した郭グループの反摂理的な行為」と罵倒したこの署名書は、統一教が犯した最も恥ずかしい行動だと摂理史に記録されることでしょう。
ところが最近、金榮輝委員長の妄言が度を超えており、今では切なさの次元を超えて深い失望と憤慨心さえ持っています。彼は去る5月、日本にまで行って、自分の摂理功績を潰す妄言を並べました。日本の教会は、これをビデオに撮って礼拝の時間にすべての日本の食口たちにまわしたりしました。
彼が日本語で言った言葉を引用してみましょう。「お母様の価値を認めていない者は、神の前に立つことができないということです。許される道がありません...それをご子女様たちもそのようにしている(お母様の価値を認めていない)ので先輩たちもそのように考えがちです。それで私たちの信仰が間違っているのは、まさにこのためです。今、顯進様側に付いて行く人もいますね。完全に間違っています...この真の父母はお二人しかいません...その立場は誰も代わりをすることができません。これらのことを知らないので、何かお父様が失敗したことなど話して、失敗したのでその次の息子がそれを受け継いだとかそんな変な無理強いをしています」
まことに何といっていいか言葉が出ません。金委員長は、いかなる根拠もなく、このようにばかげたひどい傲慢と独善に満ちた言葉を吐いたことについて、今後厳密な歴史的評価と審判を覚悟する必要があります。
金委員長は、7月初めに撮影したとみられる<天聖経増補版正しい理解と摂理的価値>という主題のビデオでも真のお父様のみ言とみ旨を完全に否定して歪曲する妄言を並べました。我々は、彼の主張と視点がどれだけ本質から離れているかを一つ一つ分析し、全祝福家庭に公開しようと思います。私たちはこれからも真のお父様を冒涜する金委員長のいかなる主張や行動にも沈黙しないことを明らかにしておきます。
2.金榮輝委員長の発表に対する『天聖経』を守る祝福家庭協議会の主張(段落ごとの対比)
私たちは、食口たちが十分に理解できるように金榮輝委員長の発言全体に対して段落ごとに分けて、私たちの主張をまとめました。 (便宜上、金委員長の文は、「金」に、祝福家庭協議会の文は、「祝」で始め、番号を付けて区別する)
金1:今回の問題は、3つの面から考えることができます。一番目は何かというと、お父様の遺言書とする八大教材をなぜやたらと減らし、このようにするかということです。ところで、八大教材の意味が何かを知っておくべきです。八大教材というのは、八冊の本のことではありません。人々が通常考えるとき『八大教材』というので八冊の本だと思うということです。
祝1:八大教材教本は、単順に八巻の単行本冊子と思っている食口たちがどこにいますか?最高元老がなぜ今更それを強調して解明するのか突拍子もなく疑問です。もしかしたら、金委員長自身が今まで、そのように理解してきたのではないですか?食口たちのレベルを軽く見ないでください。今この瞬間も世界各地で夜を明かしてお父様のみ言を訓読し、研究する食口たちがいます。
金2:それならそうでない理由が何か?まず一番目にお父様の『み言選集』は600冊以上になっています。それはもうだめなのですね。
祝2:真のお父様み言選集、すなわち『文鮮明先生み言選集』は全体まとめて一つの教材教本に制定されたもので、それが何冊かということは議論するところではありません。それよりもはるかに重要な問題は、その分量が何冊になろうとなるまいと真のお父様が生涯に残された全てのみ言を抜け落としたり、加えたり減らしたり、改ざんしないでそのまま完全に刊行することです。これはみ言編纂委員会が遂行しなければならない最優先任務であり課せられた業務に該当します。経典補完のようなことはみ言選集を正しく刊行する基本責務を果たした後でかろうじて口にすることができることです。
金3:次に二番目として『家庭盟誓』は、本がありません。『家庭盟誓』は、天聖経の前に書き、重要な本ごとに前に入れませんか?家庭盟誓解説は平和神経の中にあります。平和神経の中に家庭盟誓が合わさっているのです。これはお父様が考えられた方法だということです。
祝3:『家庭盟誓』は、一枚の文書ですが、それが含んでいる意味と価値は、真のお父様のみ言全体を含んでいるといえるほど比重が大きいのです。真のお父様は「家庭盟誓は、天宙平和統一王国を成す絶対基準であり、憲法と同じもの」と明示されました。例えば一国の憲法は、その文書の分量が多い少ないによって意味の軽重が決まるわけではありません。
金委員長の言及を額面通りに見ても、「『家庭盟誓』が『平和神経』の中に合わさっているのが真のお父様が考えられた方法」であればそのようにしておかれた『平和神経』冊子自体をなぜなくしてしまったのですか?自分たちの手ですでになくした本の名前を今になってなぜ持ち出すのですか?
それよりも私たちが指摘する問題の要旨は『家庭盟誓』の原文を改ざんして毀損したことにあります。まず「神様」を「天の父母様」と変えたのは、かつて真のお父様が確定公布された「天宙真の父母様」(2003.2.6)という名と対峙し、「天宙.天地.天地人真の父母様」定着摂理の根幹を揺るがす重大な危険性を抱えています。
2001年1月「神様王権即位式」と10月の天一国出帆後、2003年2月6日(陰1.6)真のお母様還暦を期して「天地父母様 天一国開門 祝福聖婚式」と「天宙・天地真の父母様平和統一祝福家庭王即位式」がありました。天宙真の父母様は、無形の霊的な父母であられる創造主、神様であられ、天地真の父母様は実体的父母であられる真のお父様と真のお母様を称します。
天宙真の父母様と天地真の父母様は、天一国開門祝福聖婚式を通して合徳一体化されました。これは、1960年4月11日、教会基盤の真の父母様御聖婚に続く天一国基盤の第二次真の父母様聖婚であり、神様聖婚の意味を有するものであり、これにより、天宙・天地真の父母様が平和統一をなされ祝福家庭王に即位されることができたのです。
続いて2003年10月25日(陰10.1)天地人父母宣布がありました。天地人父母は天宙‧天地父母が真の愛で合徳され、霊‧肉実体を持った実として3大圏の家庭基盤で定着されるようになります。このような脈絡で「天の父母様」という称号を公式に規定して使用することは概念的に摂理史的に根本的な問題を抱えているのです。
また、「成約時代」を「天一国時代」と変えたのは1993年以来、7年間の成約時代を越えてみ言完成の前の時代を包括する概念的定義という点を見落とした措置です。しかも、既に到来した天一国の時代を前提とされ、各節の冒頭に「天一国主人」(2002.11.5)を補完されたこととも文脈上重複し調和しません。
真のお父様は2004年に『家庭盟誓』を最終完成された後、聖和されるまで8節原文をそのまま維持して来られました。その意味を深く察して改ざんされた部分を復元するのが妥当です。
金4:『天国を開く門真の家庭』『平和の主人血統の主人』も小さな本です。これは経典になることができません。もし、これを効果的にするなら、外部に渡す時に平和神経と合わせて一冊にしてもかんばしくない本だというのです。
祝4:先に『家庭盟誓』が一枚の文書なので、どの本でも、その中にくっつける程度の意味を持つといった言葉もそうだし『天国を開く門 真の家庭』や『平和の主人、血統の主人』が「小さな本なので経典になることができない」という言葉は、実にみ言と摂理に対する無知のいたすところと言わざるをえません。同時に、こういう断言は仮に量的に少ない冊子だとしてもそれを教材教本に制定された真のお父様のみ意を一蹴する致命的な不忠を公開しているといえます。実に最高の元老らしくない軽はずみきわまりない言いぐさです。
金委員長は、その二冊の冊子の意義について力説された真のお父様のみ言をただ一節でも読んで見たのかお聞きしたいと思います。読まれたならそんなあきれた失言をすることはできないことでしょう。
『天国を開く門 真の家庭』は仮に148ページの薄い小さい冊子だとしてもその中に込めて人類に残されようとした真のお父様の摂理的なみ旨と心情的熱望はまさに絶対的基準でありました。『平和の主人、血統の主人』もやはり、ある日ある場所でくださったひと握りのみ言を収録した小冊子ですが、そのみ言を通して願われたみ旨と期待された次元は実に奥深く非常に高いものでした。
『天国を開く門 真の家庭』は、神様自ら指定して下さったといわれ(真のお父様のみ言、2009.11.6)、『平和の主人、血統の主人』は最後の遺言書として、真のお父様聖和後、伝統を立てる教材教本であると明示されました(み言選集、偽本615-287、2009.9.10、真のお父様み言、2009.11.14)。
従って、量的分量の比較だけでは、その冊子に込められた摂理的な質的価値を測り判断することはできません。もちろん、今の金委員長の視点と判断力をかんがみると、その方に質的価値とは何かを議論すること自体が無意味なのかもしれません。
真のお父様はすべての祝福家庭が、この冊子を430冊ずつ購入し、氏族的メシヤの活動と伝道に活用するよう強く促して来られました。このように、真のお父様は、現場にみ言を普及し伝えるのに非常に容易なように、含蓄があり、核心的なメッセージを小さな分量に込めて教材教本として贈って下さいました。この2冊の小冊子は厚い経典と比べて外観は倭小ですがそれらと同一の位相の教材教本に制定された深い配慮のみ意が込められているのです。
従って、金委員長が分量が少なく経典になることができず「外部に渡す時に『平和神経』と合わせて一冊にしてもかんばしくない本」と言ったのは非常に思慮深くなく、彼の摂理観と信仰基準の盲点を如実に露出したものです。このような委員長の誤った認識と視点が現在の八大教材教本全体を軽んじて、毀損と解体という初めての事態を引き起こしたと見ざるを得ません。
金5:その本が重要でないということではありません。私たちが外部の人に渡すときにそうだということです。お父様が家庭盟誓を平和神経と合わせたように、私たちも天聖経の中に家庭盟誓の内容を入れ、、お父様の講演集である『平和経』にもよりプラスして入れたということです。
祝5:すでに「小さな本...これは経典になることができない」「一冊に作ってもかんばしくない本」などの表現をよどみなく駆使された場で「その本が重要ではないということではない」という真正性のないリップサービスはとりたてて効力がないようにみえます。重要だと言うのであれば一体何が重要なのかわかって言う言葉ですか。
真のお父様が経典に制定されたこの二冊の小冊子に手をつけたことをめぐり、外部の人に渡すのにいいためという次元で説明しているのは、実に軽薄で不如意な言い訳です。また「私たちが外部の人に渡すとき」のためなら厚く重い講演集『平和経』よりもむしろその小さな2冊の冊子をそれぞれたやすく渡すことがはるかに良いのではないですか?この二冊を経典に制定された真のお父様の奥深いみ意はさておいても、すでに外部の人に渡したり、配ったりするのに適当な分量と大きさでよく作ってくださった冊子を、しいて所持するのも難しい分厚い本の中に探しだすのも難しくしておいてそれが外部に渡すのにいいとは、こんな妙な言葉遊びがどこにありますか?
金6:だから(八大教材の中に)一つも抜いたものはありません。それをより手軽に、より見やすく、持ち運び良く全部合わせたものです。経典を経典らしく作ったものです。見てください。八巻の中にみ言選集はそのままあります。世界経典もそのままあり、原理講論もそのままあります。
祝6:1648ページの『平和経』が192ページの『平和神経』よりも「より簡単に、より見やすく、持ち運び良く」したという言葉は一体合っているのでしょうか。 148ページの『天国を開く門 真の家庭』と152ページと68ページの『平和の主人、血統の主人』を合わせた1648ページの『平和経』がどのように「より簡単に、より見やすく、持ち運び良く」作られた本ですか?さらに「経典を経典らしく」つくったというのですか。それなら、お父様は経典を経典らしくないように制定されたというのでしょうか。そのような冒涜に近い妄言がどこにありますか?そしてみ言選集はそのままだと言いましたが、金委員長は、教会の指導部がみ言選集にまで手を着けて修正したことを本当に知らずに言う言葉ですか?
金7:5冊は問題ありませんか?その中で『家庭盟誓』は『平和神経』に入っているのだから、それは抜いて4冊が問題になります。『天国を開く門 真の家庭』、『平和の主人 血統の主人』を合わせてしまえば、すべて入っているのです。
祝7:金委員長の言葉を聞くと、まるで在来市場で雑貨商人が品物を陳列しながらぶつぶつ言う姿が浮かびます。「これはここに置くとよく、これは抜いてあそこに置くと、見た目がちょっとより良く、これとこれは量が小さいから合わせておけばちょうどいい。何が問題だ。さあ良く売りさえすればいい」まあこんな感じではないですか?
真のお父様が生前に多くの出版物の中で八大教材教本を選定して確定されるまでどれほどの年月を昼夜、精誠をつくされご苦労されたか、金委員長は考えてみられましたか?神様の前に一点の傷もない完全に玩味した最大の供え物として奉献され、天と地億万歳人類のための最高の贈り物として相続して下さろうと、その憔悴した日々を耐えながら注がれた血と涙のこもった足跡をどれほど推し量られましたか?
金委員長は一体何者だから真のお父様が生涯最後の事業として気をもんで調べられた末、制定された八大教材教本の名前とその偏在区分を、市場の雑貨商が品物をわけて置くように、あれこれおきかえる権利を行使するということですか? 八大教材教本とは、その創出の原作者であられる真のお父様が深思熟考され手ずから編成され、命名されたその基準があるので、固有の意味を持つことができるのです。それだけが私たちすべてに唯一で比類のない価値を持つものであり、たとえその構成が、金委員長の気に入らなくても、それに手を付ける権限が一つもないのです。
金8:お父様ではなくお母様がしたので、今言っているのです。それなら、お父様とお母様がどのような価値の違いがあるのかというのです。その人々は、お父様はとても高い位置にあり、お母様は何でもないように見ています。これが問題の発端です。そこに問題があるのです。八大教材を巻数でだけ考える観点。お父様の位相とお母様の位相を違ってみる観点から出てきたものだというのです。
祝8:いまだに状況把握ができず、核心をつかめないでいる言葉です。「お父様ではなくお母様がしたので言っていること」ではなく、「お父様がしておかれたことをお母様が間違って手を付けられたので、言っていること」です。
そして、いったい誰が真のお父様と真のお母様の価値の有る無しを論じたというのでしょうか?「お父様はとても高い位置にあり、お母様は何でもないように見ていること」が問題の発端ではなく、「お父様と同じ非常に高い位置におられたお母様がお父様が高い位置でしっかり建てておかれた仕事を壊して自ら何でもないものと同じ位置に降りていかれようとしたこと」が問題の発端なのです。
前にも指摘しましたが「八大教材教本を巻数だけで考える観点」は、金委員長だけが持った観点であり、すでに同位権、同等権にいらっしゃるお父様の位相とお母様の位相を違って見るように事を引き起こした源泉的動機は、まさに金委員長とその委員会にあるのです。
実体もない虚構の言葉遊びに責任を転嫁し自分の間違いをもみ消そうとせず、今からでも真のお母様に真心のこもった忠言により正しい決定をされることができるように身を処し、真のお父様と同一の真のお母様の位相を再び回復して差し上げることをお勧め致します。今、金委員長などは、真のお母様の体面と位相を立てることにこだわり没頭するあまり、真のお父様の権威と位相をすっかり壊すことにより、結果的に真のお母様の位相と価値さえ失墜させる無謀なことを起こしているということを冷徹に自覚することを願います。
金9:それでは、お父様の価値は何かということです。お父様のみ言を見てください。お父様は個人的に言われたみ言は一つもありません。すべて真の父母という名前を掲げてされました。すべてのみ言は、真の父母の立場で言われたということです。祈りも、真の父母の名前でされました。どういうことかと言うと、お父様一人で言われたものではなく、お父様はいつでもお父様とお母様が一つになった真の父母を代表して語られたのです。
祝9:すべてのみ言と祈祷を二人が一つの立場でなさいましたが、どうして真のお母様はそのように一つになって行われた真のお父様のみ言の意味を、聖和される前に使い古した履物のように捨てて真のお母様の意思で行為なさいましたか。真のお父様の生前に共になされた約束のみ言であるなら、聖和後も依然として守って差し上げることが夫婦間の道理であり正理ではないでしょうか。
金10:お父様はお母様と一つになった真の父母を代表して語る事ができ、お母様はお父様とお母様が一つになった真の父母を代表して語ることができないか? 彼らの言い分はお父様はその様になることができて、お母様はそのようにはなれないということではないですか。
祝10:真のお父様は生前に総てのことを真のお母様と相談される中で摂理を展開され、真のお母様も当然それに順応して協力しながら内助して来られました。ですから真のお父様のみ言は真の父母を代表したみ言としての意味を持つと言えるでしょう。
しかし真のお父様の聖和後、地上には真のお母様が単独でおられて責任を遂行しておられますが、霊界に実存される真のお父様と総てのことを相談して裁可を得て一つになられた中で仕事をされると断言することは色々な面で困難が伴います。単に心情的霊的に交流しておられるという言葉だけでは現実世界をやりくりすることはそれほど簡単でないということです。
同じ理由で真のお父様は生前に重要な事案を決めて推進される時は必ず地上に啓示された霊的証拠を取りまとめて現実的に公認を受ける実体基台を立てて讒訴条件を解消された土台の上で支持と共感を得て仕事をなさいました。その過程は真に慎重かつ精巧で堅実でした。時には反対意見に対して退屈なほどに執拗に説得して納得させながら反対した本人自ら動機を与えられて仕事をするように導いてあげられました。
このような真のお父様のずば抜けた真の愛のリーダーシップの恩恵で今日、私たちがいるのではないでしょうか。真のお父様が自身のみ旨と期待に応えられない者をその度に断罪して敵対視し、追放して出されたとすれば、その中で金委員長は果たしてどうなさったでしょうか。そのような真のお父様に比べて今日、本当にお母様のリーダーシップはどうでしょうか。一連の状況はそれとはあまりにも相反した様相を呈しています。
そうです。「お父様にはできて、お母様には出来ないこと」があります。真のお父様は総てのことを徹底的に真のお母様と同伴なさり相談して決めて仕事をされたので可能なことであったし、真のお母様は真のお父様の生前に願われたみ言を全く考慮せず全てのことをそのみ旨と逆行する方向で、一方的に強行されているので良くないということです。
金11:お父様が1960年に聖婚式をなさいましたが、それ以前のお父様の価値はどのように考えますか。お父様は個人的蕩減しかしたものはありません。個人的蕩減をしたのです。40才まで何をなさったかと言えば、個人的立場でサタンを屈服させた勝利をしたのです。イエス様と全く同じです。
祝11:個人的路程を歩かれる時は、個人的蕩減をするは当然のことです。どうしてその当然の事実をあえて強調しながら「お父様は個人的蕩減しかしたものはない」と一蹴して断定するのでしょうか。話そうとしている意図は明らかに分かりますが、真のお父様が40才まで個人的蕩減の他には何もしたものがないということは正しいでしょうか。その他に協会を創設して食口を育成し海外宣教に送られた事など、成し遂げられた公的なことは何なのでしょうか。
金12:ところで新婦であるお母様を探して聖婚式をすることによって、その時から真の父母の名前を持つようになられ、聖酒式もするようになられ、祝福結婚式もするようになりました。その時から新しい摂理が開始されたのです。お母様とお父様お二人が一つならなければ血統転換もできないことであり、私たちを祝福させて結婚させることもできないし、祝福家庭を作ることができないということです。お父様がその次の摂理ができたのはお母様を探してお母様と一つになったためです。
お母様の価値とお父様の価値がプラスされて、真の父母になられて次の摂理をしたということです。だからお父様がいくら偉大だったと言ってもお母様がいなければお父様の価値はないということです。お父様のみ言の中にもあります。夫婦は半分にしかならないとおっしゃいました。お父様は半分にしかならないということです。真の父母の半分だということです。お母様も半分です。神様が見る時お母様の価値はお父様の価値と全く同じだということです。
祝12:とても冗長で陳腐な話です。私たちが今なぜいきなり立て続けに真の父母の価値を比べる話をしなければならないのでしょうか。繰り返しますが、今回の八大教材教本解体の事態は真の父母様の価値を比べることとは何ら関係ないことです。
あえてお母様の価値が大切なので、それをこのように強弁したいのなら、その部分だけを説得力があるように証明すれば良いでしょう。どうして真のお母様の価値を論証するための道具として真のお父様を引き入れて比べるのでしょうか。
「お父様がいくら偉大だったとしてもお母様がいなければ、お父様の価値はない」という話は非原理的な主張です。「真のお父様の摂理的公的価値は本来神様が動機にとなられて相対的に付与されたものであり、真のお母様の摂理的公的価値は当初、真のお父様が動機になられて相対的に付与されたものです」原理的価値は主体と対象の関係で生成されるのであって、対象のために主体の価値が決定されるという偏向的主張は妥当でありません。真のお父様がこの地に来られて40年苦難の路程後に真のお母様を新婦の位置に最終的に採択されその位置に立てられなかったとすれば真のお母様ご自身の意志では如何なる公的価値も持つことができないのです。金委員長は真のお母様に対する過度な忠誠心の発露によって、真のお母様が真のお父様から支えられた生涯の陰徳と恩恵を捨て去る夫人として認識されないように言動を慎むべきでしょう。
金13:もちろんお父様はご苦労を沢山なさいました。イエス様は苦労を沢山しなかったのでしょうか。お父様も同様です。サタンを屈服させた個人的勝利条件を立てるのをお父様がなさったのです。ところがその後で聖婚をすることでお母様と一つになったのではないですか。一体になれば、相続権、同位権、同居権があるとおっしゃいました。お父様と全く同じである同位権に入るのです。一つです。同じ価値ということです。
ですから先ほどお話しした通り、お父様はいつもお父様とお母様が一つになった真の父母になられた立場でみ言も語られ、すべての摂理を進行なさったために、お母様もお父様とお母様が一つになり真の父母になられた立場で摂理をすることが出来るということです。その時にはいつもお父様が一緒になされるというのがそのことです。従って、お父様一人でなさる時も、お母様がいつも行く時に一緒に行かれ、事情が許さない時には一人で行かれましたが、いつも霊的には一緒に行かれたという条件を立ててなされたのです。同じようにお母様がなさる時にも、お母様一人でなされたのではなくお父様も霊的に一つになって一緒になされているという心情を持って、そのような条件でなさっているのです。ですからお父様の価値はお母様と全く同じだということです。
それでは、お父様と全く同じ価値を有しているお母様が指示をして行ったこのことが、何か誤っているのかということです。誤ったことは一つもないというのです。ですからお父様が指示して私たちが「天聖経」を作ったのと全く一緒である立場で、お母様がなさったことです。誰も批判できません。そしてお父様とお母様に対して私たちは批判する資格がありません。誰一人としてありません。誰がをご父母様を批判する資格がありますか。神様の他にはいません。神様だけがご父母様の名前でできるのであって、私たちはご父母様を批判する資格がないです。権限もありません。これは完全に越権でサタンというものです。何の権限があって、何の資格があってお母様がなされることを批判し、お父様を批判できるかというのです。それは誤りです。
祝13:真のお父様と真のお母様の価値が全く同じだという言葉をとても冗長で退屈にも繰り返した下心を確認できました。
私たちは真のお母様が下された指示が真のお父様がなされた事を壊す結果になっているので誤ったと言っているのであり、それでその誤りに対して指摘して問題を提起しているのです。真のお母様が真のお父様と同じ価値を持つ方だと言って、自分の意思で真のお父様の遺業を全部傷つけてもかまわない権利まで持つのではありません。真のお父様が生前にどの時点で真のお母様に八大教材教本を改悪し改ざんして傷つけてもかまわないという権限を付与されたことがありますか。あるならばそれに相応する根拠は何でしょうか。従って今回のことは真のお母様が真のお父様の権限に脅威を与え越権なさったことなのです。
私たちは真のご父母様の価値に対して論じたことはないし、そうすることもできません。ただし、真のお母様の指示を前面に出して真のお父様がして来られたことを破壊した貴委員会の誤りを指摘して批判しているのです。貴委員会は「何の権限があって、何の資格があって」真のお父様が行われた八大教材教本の構成と体制と内容に対して批判できますか。何の権限と資格でそれを思いのままに変えたのですか。先にこの点を謙虚に調査するように願います。
金14:その次にはこの「天聖経」の内容を見ようというものです。今日もある人が私に電話を掛けて来ました。「前の『天聖経』は、神様の編を例にあげれば、重要な事が出て、その次にまた他の内容が出てきて、また重要な内容が出てきて……複雑で後で見ると、どれがどこにあるのかこんがらがると言っていました。ところが、今回の「天聖経」増補版はそのようなことがなく順序良く、理論的に展開している」と言っていました。とても神様に関する全てのことが明らかに入ってくると言うのです。
それでその人が「これは私たち信仰者だけでなく、信仰を持たない人にも多いに役に立つ、その人はこの本を見ればお父様の価値も解かるようになり、神様に対しても知るようになるだろう」そのように言いました。そう、その人はこうも言いました。「今まで私たちがお父様の自叙伝を配布したが、それと同じようにこの「天聖経」を配らなければならない。これが今後伝道をするにあたって重要な地位を占めるだろう」と話しました。それを見た人はそのように理解をするのです。
祝14:自分たちの手で改悪した改ざん品を取り出して誇示し功をてらうために、真のお父様が自ら制定された「天聖経」を無惨に踏みにじる妄言以外の何物でもありません。「この本を見ればお父様の価値も解るようになり、神様に対しても知るようになる」とは。それなら原本「天聖経」を見ても、お父様の価値も神様の価値も分からないという論理ですか。そうして真のお父様の価値をうんぬんできますか。
金委員長は今、真のお父様の価値はもちろん、その方の全生涯的意味を持つ偉業まで根こそぎ踏みにじる不忠と不孝によって越権を行っています。
金15:ですから、私たちは堂々としています。私たちが他人の話を入れましたか。全てお父様のみ言です。お父様のみ言は6百冊以上になりますが、それをみな入れることができますか。6百冊にもなるみ言をどのように全て入れますか。どちらにせよ取捨選択をするほかはありません。
祝15:取捨選択は真のお父様がすでにされました。金委員長に取捨選択する権限と役目を委任されたことはありません。
金16:私たちは私たちが見る観点で取捨選択をしたのです。最も適合すると思うものを選んで入れたということです。それが何が間違っていますか。とにかく皆さんは絶対こんなことに動揺する必要がありません。動揺する人もいないと思いますが、自信を持ってしなければなりません。誰が何かそうだと言って、動揺する人は最初からしないで下さい。
祝16:まさにそれが誤りなのです。真のお父様が取捨選択して確定されたみ言を無視して貴委員会が見る観点で任意に取捨選択したその事実が誤りなのです。そのような理由で貴委員会内部に「動揺する人」がいるのは当然の現象でしょう。自分の意思であろうと他人の意思であろうと、このような凶悪の集団行為に加担して動揺しない者であれば、彼がどうして良心がある者でありみ旨の道についてきた者ということができますか。砂上の楼閣と同じ全くでたらめな論理と、委員長という権威を前に立てて神聖な経典作業に加担する委員に加える強圧的言葉もまた危険千万な自らの状況を傍証していると言えます。
金17:私たちが今「真の父母経」を作っているではありませんか。これも前にありましたか。以前にありませんでした。前に先生がおられる時にあったものではないでしょう。これも新しくすべて作って、お父様の歴史、全てのことをすべてやって、合わせて経典を作ることではないですか。それが何が間違っているというのでしょうか。さらに豊富な内容を持って、より多くの資料を持って作っていますが、これに対して、何がどんな偽作で……偽作という話はお父様のみ言を使わないで他の人の言葉を使う時、偽作といえるのに、どうして偽作になりますか。お父様のみ言なのになぜ偽作なんですか。話になりますか。
祝17:真のお父様が自ら制定された経典を追い出して、同名で全く違う体制と内容を入れて改ざんしたため偽作なのであり、それで誤っているのです。本来、確定された内容を無視し「さらに豊富により多くの資料」を入れたその行為が誤っているということです。しかもみ言の主人であり、原作者である真のお父様の許可が得られない本に「真の父母経」という名前を付けることができるのですか。それがどうして真のお父様制定の経典の位置を代替できるというのでしょうか。
金18:ですから今回、私たちが行っていることも私心ではなく、今まで私たちは私心なく行ってきましたが、徹底的に私心を離れて、本当に公的な立場で全てのものをすべきであると考えます。それが私たちの強みです。私たちがそのようにするならば、恐れることは一つもありません。神様の前に行っても心配することは一つもありません。
祝18:最後に自ら語ったその言葉で、自分たちの行為を根本的に省察できるよう願います。徹底して私心を捨てて今でもぜひ公的な立場において自覚して下さい。その自覚の根拠と基準は徹底的に八大教材教本の制定者であられる真のお父様の生前のみ言でなければならないでしょう。
今、真のお父様が天上にいらっしゃるとしても、地上でいつも共に同行されるという基準で恐れ多い気持ちで話し、行動しなければなりません。真のお母様の現在の権威と指示だけを恐れるのではなく、天上から見下ろされる真のお父様を恐れ、天地人類と後代の評価を恐れて、最終的には神様の前に立つ日を心配しなければならないでしょう。
にほんブログ村