2013年7月17日水曜日

真の父母様み言編纂委員会の <天聖経増補版に対する正しい理解 - 一部の人々の天一国経典批判に対する立場 - 2013.7.5> に対する私たちの主張


真の父母様み言編纂委員会の

<天聖経増補版に対する正しい理解 - 一部の人々の天一国経典批判に対する立場 - 2013.7.5>
に対する私たちの主張





真のお父様制定『天聖経』を守る祝福家庭協議会
2013.7.8


1. はじめに

私たちは、教会指導部といわゆる<天聖経増補版編纂委員会>が、真のお父様が健在であられる時から計画を立てて、聖和1年にもならない時点で真のお父様制定八大教材教本を無残に破壊し、改悪したことに対して、血が煮えくり返るほどの憤怒の心情で彼らの犯した天も人も憤る蛮行を全世界の食口たちに知らせ、真のお母様が全ての計画を全面撤回して八大教材教本の位相と価値を再び元の状態に復元させてくださることを切実に訴えました。この知らせに接した世界中の数多くの祝福家庭は、特に、絶対に手を出すなと何度も語られた真のお父様の遺言とも言えるみ言に接し、大きな衝撃と混乱に陥ることになりました。

ところが教会指導部は、食口たちの忠告と問題指摘に対して深く悩み検討するどころか、むしろ彼らを「サタン」と罵倒し、金榮輝編纂委員長を立てて実に恥ずかしく苦しい言い訳をさせていましたが、現教権の権力の侍女に転落したみ言編纂委員会の名を借りて、こじつけに近い嘆かわしい主張をずらりと並べ立てました。

私たちは彼らが後ろに隠れるのではなく、このように表に出てきたことを天の生きた役事とみます。なぜなら、彼らが発表した主張の中に、彼らの反摂理的な動機と観点、真のお父様のみ旨に反逆する不忠不孝な行いがそのごとく込められているからです。無知には完成がないという真のお父様のみ言のように、今、祝福家庭は真実をはっきりと知る必要があります。それでこそこの混乱の時代を正しく切り抜け、風前の灯火となっている神様の摂理と真のお父様の遺言を守ることができるからです。み言編纂委員会の立場を盛り込んだ全文を一つ一つ細かく反駁した私たちの主張が、祝福家庭が真実を把握する十分な羅針盤となってくれることを願うものです。


2. み言編纂委員会の立場と『天聖経』を守る祝福家庭協議会の主張(段落別に対比)
私たちは、食口たちの理解を十分に助けるために、み言編纂委員会の立場(本文全体)に対して一段落の例外もなく、私たちの主張を整理しました。便宜上、み言編纂委員会の文章は「み」、祝福家庭協議会の文章は「祝」で始め、番号を付けて区分することにします。

み1:昨年、真のお父様の聖和後、私たち統一家の兄弟たちに任された最も早急な課題は、真の父母様の遺業を相続することです。

祝1:真のお父様の聖和後、私たちに任された最も早急な課題は、すでに真のお父様の生前に相続した偉業を破壊することなく、保存、継承しながら実践の実を結ぶことです。別個の改ざん物を恣意的に制作して、それをどうして自ら相続すると言えるのでしょうか。相続してくださる遺業の主人が不在であられるのに、すでに相続された遺業を後に押しやって、誰が誰に、何を、なぜ相続し、相続されなければならないのでしょうか。

み2:真のお父様がこの地にいらっしゃる間、統一家の兄弟たちと全人類に残してくださったみ言と行跡、そして伝統を代々伝承することで、この地に真の父母様がそれほどまでに願われた天一国を定着させなければならないのです。

祝2:真のお父様がこの地にいらっしゃる間に最大の遺産として残してくださったものを代々伝承すればよいものを、なぜそれを捨てて、地にいらっしゃらない間に違う物をつくって代々伝承するというのでしょうか。なぜそのような言語同断で奇怪な詭弁を並べ立てるのでしょうか。
真のお父様は『天聖経』制定当時から、これを天一国定着実現のための核心教材教本として伝授され、全国民と人類に普及するよう督励されました。それを通してそれほどまでに願われた天一国を持続的、発展的に定着させていけばよいことです。

み3:それゆえ真のお母様は2012年11月29日、「真の父母様のみ言やすべての行跡は宝石である。私はその宝石を最高に価値ある物としてつくる」と言われながら、天一国経典編纂事業を指示されました。

祝3:真のお母様は2012年8月23日、第1回目の編纂委員会議がもたれる以前にすでに経典改悪編纂事業を指示されて、非公開で事業を進めてこられました。2012年11月29日に天一国経典編纂事業を指示されたという言葉は、真実を隠蔽しようという日付引用の誤りです。
2012年8月は真のお父様の最後の闘病期間に該当します。生前に誰も裁可を得られなかったほど深刻な状況において、絶対的であまりにも意味が重大である事案を、よりによって生死の境を往来されながら死闘の真っ最中であられる切迫した期間に急いで企画された理由が何であるかを調査し、解明してほしいものです。さらに、真のお父様聖和以後初の記念事業ともいえる仕事を、真のお父様の生涯最大の遺言を破壊する方式で強行する本意が何であり、その大義名分が何なのかを代弁することが読者のための配慮であり責務です。
さらに、真のお父様の血が凍るような精誠を土台として、すでに最高の価値を持つ「宝石」として精密で精巧に加工されたみ言と行跡をあえて解体して再加工しながら、「最高の価値がある物としてつくる」と言うことができるのでしょうか。

み4:そして先日、6月10日に『天聖経』増補版と『平和経』出版記念式において「このみ言が散り散りにならず美しい宝石となって一つの糸に繋がれているということを思う時、あまりにも嬉しいです」と語られました。

祝4:すでに八大教材教本というタイトルで一つの糸に繋がれている美しい宝石を、なぜ再びバラバラにして混ぜ合わせ、全く違う形の商品に改ざんさせるのでしょうか。原作者の意図と趣旨とは全く関係なく、恣意的に設計と構造を改ざんした改作行為が果たして倫理的でしょうか。改作者の喜びが原作者の喜びと同じだと、どうして自負することができるのでしょうか。
真のお父様が生前、八大教材教本に対して示された愛情と、その成果に対して披瀝された喜びと感激の心情を察すれば、また別の違う形の改ざん物を眺めながら喜ぶことはとうてい難しいだろうと思われます。
真のお父様はこのように語られたことがあります。
「先生自身がこれらの全てをつくったのですが、見れば見るほど良いのです。『どうやってこんな本が出てきたのだろうか』というのです。そんなふうに思いませんか?先生がつくって持ち歩きながらも、1ヵ月、2ヵ月過ぎてから見ればどれほど嬉しいか分かりません。1ヵ月前より2倍嬉しいのです。そのために一番最後の結論だけ見ようと思った人が、最初から最後まで見るようになるのです。全体の核心は中間に隠れています。それが最初から表に出てきますか?それは中間に隠れているのです」(真のお父様のみ言、2009.11.6)

み5:しかし、天一国の経典の中で、まず『天聖経』と『平和経』を奉献した摂理史的事件に対して全体で喜ばなければならないのにも関わらず、それまで真の父母様のみ旨とは違って反対のための反対を仕事としてきた一部の無自覚な人々が不穏な文書を食口の家庭に送ったり、オンラインカフェを通してその価値を破壊し、真の父母様のアイデンティティまで揺るがすという振る舞いを見せています。

祝5:今回、『天聖経』と『平和経』を奉献したことを「摂理史的事件」と美化しないで下さい。その上、「全体で喜ばなければならないこと」だと強制してはいけません。特にこのようなことを「真の父母のみ旨」だと言ってはなりません。
今回、出版された『天聖経』と『平和経』は、実際のところ厳密には「真のお母様のみ旨」によってなされたことであり「真の父母様のみ旨」によってなされたものでは全くありません。「真の父母様のみ旨」だという曖昧な言葉遊びで全体を欺こうとしないで下さい。
真のお父様が生前に披瀝された「真のお父様のみ旨」と全く異なる行為に対して正しい根拠を持って問題提起し、改善の意思を表明するのは、自覚ある子女であるならば誰でも当然、行わなければならない当然の道理であり責務です。従って、「反対のための反対」「無自覚な」「不穏分子」といったような表現は全く適切ではあり得ず、むしろ今回の『天聖経』改悪、改ざん作業こそが「真のお父様が制定された天一国経典原本の価値を破壊し、み言の主人であられた真のお父様のアイデンティティまで揺らがす無自覚で不穏な行為」だと言うことができるでしょう。今回の事態は、「真のお母様のアイデンティティ」確保に偏重して「真のお父様のアイデンティティ」を脅かし、破壊する重大な越権行為であり過失であると指摘せざるを得ません。

み6:特に真のお母様に捧げる文書を通して真のお母様の心を痛めたことはもちろん、<天一国時代に真の父母様が下さった新しい経典を通して一つにならなければならないにも関わらず、世論をごまかす等、摂理に逆行した行為をしており、深く憂慮せざるを得ません。

祝6:繰り返しますが、真のお母様が正しい道を行かれないのであれば、その点に対して真実なる心で忠言し、正しい道を行かれるよう覚醒させてさしあげるのが成熟した子女にふさわしい道理です。確かに、ご自身の見解とは異なる内容の文書であるため痛みに耐える必要があられるかもしれませんが、子女の忠言と進言を受け入れることができるように補佐をするのが側近で侍る者たちの本分です。
もう一度指摘しますが、今回出版された本は「真の父母様が下さった新しい経典」としての意味と位相を備えていません。厳密に言えば、「真のお母様が真のお父様制定経典の原本を改悪、破壊して編集するようにされた、真のお父様のみ旨とは異なる誤った経典」すなわち「偽書」と称するのがふさわしいでしょう。従ってこのようなことを通して私たちが一つになることはできず、そうしてもならないのです。むしろ誤った改ざん物を前に立てて野合する行為こそ真のお父様の心情を蹂躙し、お父様が国を起こし耕してこられた摂理の伝統に逆行する不忠であり、道理にもとる悪業であると言わざるを得ません。正当性と真実性が欠如し、歪曲された名分でもってなされたことを摂理的な業と自称し、従うことを強制したりごまかす政策をすぐさま撤回するよう願うものです。

み7:従ってこれらの反摂理的主張に対して、以下のように解明せざるを得ない状況に至りました。牧会者の皆様はこれを食口たちによく伝え天一国経典の価値を正しく理解させ、訓読の生活化を通して食口たちが重生することができるよう導いてくださることを願います。

1.「手を出すな」という主張に対して=真のお父様は生前、『天聖経』の大切さに対して多くのみ言を語られながら、当時、一部の幹部たちを相手に『天聖経』に「手を出すな」とおっしゃいました。


祝7:「真のお父様が生前、『天聖経』の大切さに対して多くのみ言」を語られたと言いますが、果たしてそのみ言をきちんと読んでみたのかと問いたいです。きちんと読んだのであれば、今日、『天聖経』に手出しをすることがどれだけ恐ろしい過ちであるか自ら分かるようになるはずです。
さらにその多くのみ言の中で『天聖経』に「手を出すな」というみ言が「一部の幹部たちを相手に」語られたというみ言認識の観点は、いわゆるみ言編纂委員会としての自覚喪失と機能放棄を自認する致命的な問題点をあらわにしています。百歩譲って、万一そのみ言の対象が一部の幹部であったとしても、それはその当時の組織の代表である責任者を相手に語られたのであり、全体のための指針として下さった指示と命令であるはずです。真のお父様のみ言の公的次元と意味を貶め、自己の便宜でもって縮小解釈するというそのような歪曲した視覚で、どうして自らみ言編纂委員会であると自称できるのでしょうか。今からでもそれに関連したみ言の根拠を再び調べてみてほしいものです。

み8:一部の反対派は、そのみ言を根拠として『天聖経』増補版に対して集中的に批判をしています。しかし真のお父様を代身して地上摂理を陣頭指揮される真のお母様が、既存の『天聖経』に真のお父様が聖和されるまでのみ言を追加し、後代に残すことができる『天聖経』の補完作業を指示されたのです。真のお母様は真のお父様と常に共にあられたために、『天聖経』に対して真のお父様がどのような考えを持っていらっしゃるかをご存知でした。
祝8:「真のお母様が指示された」という名分だけで全てのことを覆い、もみ消してしまおうとしてはいけません。『天聖経』とは、真のお父様がご自身と常に共になさったという理由で、真のお母様だけのために制定して残された、夫婦間の記念品のような価値の本ではありません。真のお母様を含めて全天地人類と後世のための遺産として制定し、伝授された天一国の経典です。
そのような人類共有の最高の遺産として残された経典全体を変えるという重大なことを、生前に公的な場においてただの一言も公式的に言及されることなく、ただ真のお母様だけに秘密裏に考えを伝えられたという言葉は、真にあきれかえる幼児並みの想像力の産物といえます。
『天聖経』に関するみ言のどこにも「手を出してもよく、変えてもいい」とは語られていないのに、いったいいつ、どこで、どんな理由で「手を出してもよい」というみ言を下さったというのでしょうか。「真のお母様は…真のお父様がどのような考えを持っていらっしゃるかということをご存知でした」と断言する客観的根拠は何なのですか。少なくともみ言編纂委員会の公式意見であるならば、そのような素朴で純粋無垢な想像や憶測ではなく、より客観的で可視的な物質的証拠が提示されてこそ説得力を持つことができるというものです。

み9:真のお父様は「(『天聖経』は)今まで出版した先生の説教集480巻の中から抜き出したみ言です。その3倍が、まだ発表していない『天聖経』第2巻、あるいは第3巻となり得るものが待っています」(599-85、2008.9.25)とされながら、第2、第3の『天聖経』に対する必要性を語られました。

祝9:ここに引用したみ言の句節には、『天聖経』第1巻を再びつくらなければならないという意向が全く現れていません。それなのにこのみ言を引用した意図は何なのでしょうか。
今回、何かをしなければならなかったとすればまさにこのような作業、すなわち一連の後続作業を慎重に構想してこそ正解でした。もちろん第1巻を普及し、脚光を浴びるようにしてさしあげるのがそれよりも優先的な事項です。
第1巻はいかなる場合にも原本どおり尊重され保存されなければなりません。第1巻自体をすげ替える行為は真のお父様の位相と権威に対する重大なる挑戦であり、一種の背信であると言うことができます。

み10:また「『天聖経』は第1巻が出ています。第1巻、第2巻、第3巻を中心として、その次に百科事典の内容も添付して2013年1月13日までに完了することができるすべての準備を終えておかなければなりません」(611-282、2009.5.17)とされながら、新しい『天聖経』を基元節までに出しておかなければならないというみ言を語られたのです。

祝10:み言編纂委員会の文章読解力が疑われる根拠の提示です。ここで第1巻を新しくつくるようにというみ言がどこにあるのですか。既に第1巻が出ているという前提の下にそれを含めて第2巻、第3巻、百科事典まで添付して2013年1月13日まで教材教本完了のための全ての準備を終えなければならないというみ言ではないのでしょうか。
 このみ言を成就してさしあげるためであるならば後続作業を構想しなければならなかったはずですが、第1巻が健在な上でこのように後続作業を急がなければならない適切な状況でもありませんでした。さらに、そのような作業は見出しの構成から十分に意見を収斂する過程がついてこなければなりません。それが第1巻の見出しを適当に勝手に改ざん・構成し、違うみ言を抜き出し入れて急造しておいて、どうして新しい『天聖経』云々と語りながらこのみ言をその根拠として提示しているのでしょうか。実に涙ぐましい理屈づけをしているのが気の毒に思えます。
さらに付け加えれば、第2巻、第3巻という後続編纂作業の結果物が『天聖経』というタイトルを持つことができるのは、真のお父様が生前に編集されて、直接、検証と承認を得た時に可能なことです。それだけに真のお父様の聖和以後、どのような後続作業の結果物も『天聖経』のタイトルをそのまま持つことができると断言することはできません。
このような理由からして、すでに出版されている真のお父様制定『天聖経』を原状復帰させるのが正解です。

み11:そして「先生のみ言集において400巻の内容を中心としてつくったのです。1200巻の3分の1にしかなりません。3分の1の中から抜き出したのです。2倍、3倍がさらに出てこなければなりません」(599-110、2008.10.10)
祝11:前述した内容と同じ脈絡における根拠提示です。2倍、3倍がさらに出てこなければならないというのは第2巻、第3巻の編成を例示したのであって、第1巻を改悪、改ざんしろというみ言ではありません。

み12:「『天聖経』も先生の出版した本、400巻の中から抜き出したのです。この前、500巻が終わったと言いましたか?それ以上にこれから出版する物が待っています。いや~!その中から『天聖経』を抜き出したのですが、このようなものがもう何冊か出てくるでしょう」(591-192、2008.5.30)とも強調されました。
祝12:なぜ同じ意味のみ言を重ねて列挙し、自ら不当性をより強く立証しようと苦心するのでしょうか。「このようなもの(第1巻)が何冊か出てくる」というみ言は、『天聖経』第1巻を標本とした第2巻、第3巻の編纂の可能性とそれに対する期待を表したものであって、第1巻を改訂しなければならないという意図は全くありません。目を大きく開けて文章をもう一度、よく読んでいただきたいものです。

み13:ここで真のお父様は、既存『天聖経』の縮小作業に対しても「1次選抜、2次選抜をしました。2300数ページあるのですが、こんなに多いのです。今後、縮小させるのは皆さんのうち誰もできません。先生が手をつけて、死ぬ前にそれからしておいて先生が判を押さなければならないのです」(434-128、2004.1.30)と言及されながら新しい編纂作業の必要性に対しても語られました。

祝13:「縮小させるのは皆さんのうちの誰もできない。先生が手をつけて…先生が判を押さなければならない」と語られたみ言が目に見えないのでしょうか。既存『天聖経』に手をつけることは真のお父様が直接なさることであると明示されたみ言を、どうして勝手に改悪、改ざんしたことに対する根拠として提示するのでしょうか。ぜひ気を確かに持って下さることを願うものです。
さらに、このみ言の段落の末尾で「天宙父母、天地父母、天地人父母の名で判を3つ以上受けて修正本をつくっておいて、7数を中心として6数、6数として球形をつくっておかなければなりません。手を出すなというのです、どんな者であっても。そのような整備をしなければなりません」と語られたみ言は見ていなかったのでしょうか。なぜこの句節は省略するのですか。このみ言でも「どんな者であっても手を出すな」と言われたのではないでしょうか。ここで指す「どんな者」に、果たして「一部の幹部たち」は該当しないというのでしょうか。
その上、このみ言を語られた時(2004.1.30)は、真のお父様が2003年10月29日から12月31日までに最初の『天聖経』の訓読点検を終えられ、2回目の訓読鑑別を進めていらっしゃる状況でした。その後、2005年1月20日付で成和出版社で基本的な文章と根拠修正作業を終え、真の父母様の裁可を受けた『天聖経』(2424ページ)が新しく出版されて本格的に普及され、以後、数回にわたって重ねて検証される過程があったのです。
「縮小」の範囲がどの程度なのか正確には分かりませんが、真のお父様が健在であられる時に最終確定されたのは今日の『天聖経』であり、私たちは残してくださったままそれを完全に尊べばよいのです。
あえて推論するならば、この根拠となるみ言は第1巻の膨大な分量を考慮されて、要約した普及版を考えられたのではないかという気もしますが、いかなる場合にも第1巻自体の改訂編纂の必要性を言及されたものではないという点ははっきりと把握してほしいものです。繰り返しになりますが、根拠として提示されているこのみ言は、1600ページを超える今日の改悪『天聖経』のような形の「新しい編纂作業の必要性に対して語られた」ものでは全くないのです。

み14:一方、『天聖経』の補完作業に対しても、「私が『天聖経』を中心として教えてきた愛の道理の道を行くのが間違いないことですが、ここに抜けたものがあれば皆さんも全て補充してできの悪い子供のような人たちを教育しておけば問題がありません」(582-287、2007.12.12)
祝14:このみ言のどこに『天聖経』自体を補完編纂するようにという意図が表れているのでしょうか。『天聖経』に抜けたところがあれば、すなわち『天聖経』では探すことのできない主題のみ言が必要ならば、み言選集等、他のみ言資料から内容を補充して相手を教育しなさいというみ言ではないのですか。どうして語られた本来の意図を汲み取ろうと努力せずに自分の犯した過ちを覆って弁明することにこだわり、み言の真意を歪曲、誤用しようとするのですか。

み15:真の父母様のみ言は、何人も人為的に手を出すことができません。それが、真のお母様が真の父母様のみ言と伝統を代々相続しなければならないという次元で『天聖経』増補版の出版を許可なさったのですが、編纂委員会もやはり真のお父様のみ言を貴く思いながら、既存『天聖経』を根幹として2000年以降のみ言やそれまで公式の場で数多く強調されたにもかかわらず漏れていたみ言を補完することに重点を置いて編纂作業を進めました。
祝15:み言編纂委員会の名で「真の父母様のみ言に、何人も人為的に手を出すことができない」と表明しておきながら、真のお父様のみ言選集第594集から第615集までを部分的に削除して再編集し出版したのはどういうことなのでしょうか。まず、この問題の顛末を釈然と解明していただきたいものです。
2000年以後のみ言や漏れたみ言を補完するためには、まず第一に真のお父様が聖和されるまでの期間に残された肉声のみ言を、人為的、作為的に破壊することなくみ言選集の既存編集体制に従って完成することが優先されなければなりません。
真のお父様のみ言選集第1集の巻頭の言葉によれば、当初、真のお父様のみ言選集は「み言を一番最初の部分から始めて完全な物を出版しよう」という目的で出版されました。このように全生涯のみ言の全体を全文で収録するための趣旨で出版されたのであり、できる限り真のお父様の肉声をそのまま収録しておくことに意味があるのです。ごく少数の関係者の立場と体面と利害関係と興味を充足させるために内容を改ざんしたり、便宜上の削除、縮小等の編集方法の変更は出版の趣旨から外れるものです。いったい誰がどんな権限と評価の物差しで、加減したり変更することができるというのでしょうか。その上、原本資料を破壊しておきながら、そのみ言の主人に対する絶対信仰云々と言ったり、そのみ言の完全性を補完して差しあげると言ったりすることはありえないことです。
真のお父様はこのように言われました。
「先生が今日、(み言を)語れば、今日そのみ言を翻訳して発表することができるぐらい、すべて追いつきました。今や誰かが新しい言葉を付け加えることもなく、一言も抜かすこともなく、記録として残して全て録音するのです。録音を全部しています。これから先生のみ言が何千巻の本となっても記録として残るのです」(み言選集、599-85《偽本85》、2008.9.25)
従って、このようなみ言に立脚して第594集から第615集までを回収し、再編集・再出版した内容を全面的に復元し、真のお父様が聖和される直前まで録音されたみ言の原本資料の全てを、少しも破壊することなく完成させて出版することがまず先でなければならない。経典補完のような作業は、み言選集を正しく完成、出版した後にようやく口にすることができるのである。

み16:過度に改変し、削除したという主張に対して=一部反対派は、ある食口が真のお母様に送ったという手紙を引用して、過度に改変することでみ言の根幹を破壊したと非難していますが、これもやはり憶測に過ぎません。今回の『天聖経』補完作業の最大の原則は、真の父母様が語られたみ言をそのごとく掲載することでした。過去10ヵ月間、神学教授等、内部の専門家たちが昼夜を問わずみ言選集の原本と照らし合わせながら既存『天聖経』の誤りを正す他、歪曲されたり変質したみ言を探し出して原型を活かすのに苦心しました。特に重複した句節の代わりに新しいみ言を探し、後代に永遠に残すことができる経典編纂事業に没頭しました。

祝16:作業に参加した当事者が、それも真のお母様に捧げた公的書信の内容を引用したものに対して憶測だと対応するのは、公的な摂理機関として取るべき望ましい態度ではありません。妥当な根拠と共に、真実をあるがままに明かして理解させようとする態度を見せてほしいものです。さらに「真の父母様が語られたみ言をそのごとく掲載する最大の原則」をそのまま遵守して編纂したと自ら確信を持って言えるのでしょうか?分析結果は全くそのようになっていません。

み17:また一部では、増補版は既存『天聖経』のうち10~20%だけを残して80~90%を削除したと主張していますが、これは全く事実と異なります。既存『天聖経』は16編からなっていますが、増補版は「地上生活と霊界」「人間の人生と霊魂の世界」のように類似した内容を統合し、真の父母様の祈祷を追加して14編に再編成しただけで、その基本的な枠は変わっていません。むしろ「真の万物」「天一国」「平和思想」「平和メッセージ」「真の父母様の祈祷」等を新しく追加してこの時代の食口の皆様の信仰生活に役立つことができるよう整理しました。特に反対派たちは、既存『天聖経』のみ言の出処のうち相当数が間違って記録されているにも関わらず、このように誤った出処を基準として80~90%が削除されたのどうのという話をするのは、典型的なこじつけの主張だと言わざるを得ません。

祝17:真のお父様は早くから、『天聖経』の16個の題目に対して16数の重要性を強調されながら、真のお父様が16歳から修道してきた秘密を教えてくれる文書であるという意味があると説明されました。(真のお父様のみ言、2009.11.13、2010.5.4)み言編纂委員会は「改悪『天聖経』は14編で再編成したのみ、その基本的な枠は変わっていない」と解明していますが、16編を14編に再編したその事実自体から根本的に真のお父様のみ旨に背いているのです。
従って、それ以外の残りのことは再論する理由と意味が全くありません。削除された分量の比率に対しては、み言関係の専門家たちによって正確な分析結果が出ており、それが全国の食口たちに提供されて大多数が赤裸々な実態を認識しています。それにもかかわらずみ言編纂委員会は、どうして自らと異なる評価と意見に対して傾聴、受容して省察する努力をせず、無条件の憶測やこじつけなどで自己の過失を避けて隠蔽し、弁明することに汲々とするのでしょうか。多数からの共感や支持を得ようとするのならば実態を明確に認め、全てのことを原状復帰させた後に再論議するのが正解でしょう。

み18:その上、既存『天聖経』にあった公開講演関連のみ言は全て『平和経』に移して掲載し、特に真の父母様の行跡に関連したみ言は、今後出版される『真の父母経』に収録される予定であるため、既存『天聖経』の内容を過度に削除したというのは批判のための批判に過ぎません。編纂の原則は全て真のお母様の裁可を受けて決定し、数百数千年後を考えながら編集作業が進められたことを明らかにしておきます。

祝18:『天聖経』のみ言の主人であられる真のお父様が何回にもわたって一つ一つ検討、検証された後に確定された内容を、誰が、どのような資格で真のお父様と関係のない違う名称を勝手に定め、全て移して掲載できるのでしょうか。み言編纂委員会は『平和神経』という題目の淵源さとその意味に対して、ただの一度でも詳しく検討してみたことがあるのでしょうか。もしあるのならば、そのような軽挙妄動たる過失を犯すことはできなかったはずです。
真のお父様は2007年6月10日、「平和メッセージと霊界メッセージ」を『平和訓経』と命名してくださいました。続いて2008年7月19日、真の父母様専用ヘリコプター清平不時着事故から無事に生還なさった後、7月26日に『平和訓経』を『平和神経』と確定されました。そして、その理由に対して数回にわたって明示してくださいました。
『平和神経』は「平和に導く神様の聖書」であり(真のお父様のみ言、2009.9.23)、神様の立会の下で霊界の代表者たちの総会において決定されたタイトルであるとおっしゃいました。(真のお父様のみ言、2009.11.13)神様に侍るための継代を相続する証しであると言われながら、「訓経」は真の父母様が中心となって教え、「神経」は神様が教えるみ言だと語られました。(み言選集、589-15、2008.5.14、594-276~7《偽本273》、2008.7.18、597-173(偽本152)、2008.9.10)『平和神経』は私たちの神経の筋のような神様のみ言だとされながら、そのみ言で指導を受けるために、歴史が生きて発展する限り、千年万年消えることのない永遠なる教材だと強調されました。霊界の聖書であり、天国に入る座標として永遠に訓読しなければならないと強調されました。(み言選集、591-273、2008.6.1、593-305、311~312、2008.6.20)神様の憲法の骨子の神経として登場したと言われながら、誰も修正することができず、真のお父様ご自身もこれを変えようとすれば神様の前に報告して許可を得て再び施行しなければならないとおっしゃいました。(み言選集、594-24《偽本24》、2008.7.26、593-35《偽本34~5》、2008.7.28、595-97《偽本96》、2008.8.4、597-307~8《偽本280~281》、2008.9.14)
このように厳重な天宙史的な意味と価値が秘められている『平和神経』は、今回の事態を通して完全に解体され、その神聖なタイトルすらその影をひそめることとなってしまいました。『平和神経』の意味をわずかでも理解するならば、『平和経』というタイトルがどれほど不自然で不適切なものであるかが分かるでしょう。摂理的意義を完全に度外視したまま、人為的に定めたタイトルの下に分類して集めた真の父母様の演説文の間のあちこちに『平和神経』のみ言12章を分散させて、残りの5章は改悪した『天聖経』のどこかに編入させ、霊界メッセージは完全に削除してしまいました。このようにしておいて、より補完された経典を新しくつくったとどうして強弁できるのでしょうか。
さらに、「既存『天聖経』の内容を過度に削除したというのは批判のための批判に過ぎない」という主張は、実際にあらわになった実態から見て全く不正直な隠蔽と自己防御の手段に過ぎません。
「編纂のあらゆる原則は真のお母様の裁可を受けて決定した」と言っていますが、いったい真のお父様の生前、真のお母様が経典と教材教本を思うままに変えてもよいと権限を委任されたのはいつなのでしょうか。真のお母様が万一、真のお父様を代行する場に立たれるとしても、できることとしてはならないことがあります。真のお母様が真のお父様と心情的に一つになっていらっしゃるということと、真のお父様の生涯最大の遺業に該当するものを勝手に解体させてもいいということとは全く相関関係がない矛盾した話です。本当に一つになっていらっしゃるのならば、とてもこのような結果となってしまうようなことを企てられることはできないでしょう。
真のお母様が、真の父母様を代表されて「私に従うことが真のお父様に従うことだ」と語られるためには、まず第一に真のお父様のみ言と生前の遺業を先頭に立って尊重し、保存なさる努力を見せてくださらなければなりません。可視的には全く相反する結果が現れているのに、真のお父様と一つになったという宣言だけでは正当性と共感を得ることが全く難しいという点を念頭に置かなければなりません。
編纂委員会は「数百数千年後を考えながら編纂事業が進められてきたことを明らかにする」と言っています。あなた方がいったい何様であるから、人類のメシヤであり真のお父様が至尊された王権の威厳と権威で千年万年消えることのない天地人類の永遠なる教材として自ら制定された経典を破壊し、そこにあなた方の手で編集した日の浅い本を代わりに掲げておくというのですか。あなた方がいったいどんな資格で「数百数千年後を考える編纂作業をした」と天下に公言することができるのですか。実に傲慢、横柄で無礼の極地を示す妄言であり、恥ずかしい行為だと言わざるを得ません。

み19:3.八大教材教本を破壊したという主張に対して=これに対して一部の反対派たちは八大教材教本を破壊したと主張しているが、これは愚にもつかない言葉です。真の父母様が遺言として残された八大教材教本は何人も価値を破壊してはいけないことは言うまでもありません。むしろ八大教材教本の重要性を鑑みて『平和神経』『天国を開く門 真の家庭』『平和の主人、血統の主人』「家庭盟誓」等、分量が相対的に少ない物を今回、『天聖経』と『平和経』に含めて、常に食口たちが共に訓読することができるようにしました。

祝19:実に無知で間抜けな措置です。「家庭盟誓」は1枚の文書であり、『天国を開く門 真の家庭』や『平和の主人、血統の主人』は150ページ前後の薄い小冊子です。しかし、その中に込められ、人類に残してくださろうとされた摂理的なみ旨と心情的熱望は、まさに絶対的基準にありました。従って量的な基準だけでその本に込められた摂理的、質的価値を判断することはできません。「その分量が相対的に少ない物」であるからあちこちに分散させて含めたというのは、分量が少ないが独立的な教材教本として制定された真のお父様の意図とみ旨を全く汲み取ろうとしない軽率な行動です。
真のお父様は、『天国を開く門 真の家庭』は神様ご自身が指定してくださったと言われ(真のお父様のみ言、2009.11.6)、『平和の主人、血統の主人』は最後の遺言書として真のお父様の聖和以後の伝統を立てる教材教本であると明示されました。(み言選集、偽本615-287、2009.9.10、真のお父様のみ言、2009.11.14)さらに「家庭盟誓」は「成約時代を超えて天宙平和統一王国を成す絶対基準であり、憲法と同じもの」だと規定されました。(『平和神経』2007.6.13)
 このような理由により、八大教材教本とは永遠なる天国の博物館に保存する本であると言われました。(真のお父様のみ言、2009.11.13)それにもかかわらず、み言編纂委員会は八大教材教本の摂理的価値と意味を見過ごして、自分たちの目に見える物理的な分量を基準として単純に判断しており、安逸な編集主義的発想によって解体させるという過ちを犯したのです。  

み20:結果的に天一国経典を批判する過程において、一部の不純勢力のアイデンティティが白日の下にさらされています。彼らは真の父母様のアイデンティティと伝統を破壊することに血眼になっています。真の父母様といえば、真のお父様と真のお母様をおいていう言葉です。1960年の聖婚以後、真のお父様は常に真の父母の立場でみ言を語られたり全ての摂理を導いてこられたのであり、私たちに対する祝福もやはり真の父母の名で下さったのです。それなのに真のお父様と真のお母様の位相を別に見て、真のお母様がなさることをことごとく批判する彼らこそ、私たちの共同体を組織的に破壊しようとする不純勢力であると見ざるを得ません。

祝20:問題の核心をずらさないでください。今回の経典破壊事態を通してみ言編纂委員会の曖昧なアイデンティティと政治的行為が白日の下にさらされたことが主眼点です。貴委員会のほうが、真のお父様が生前に遺言のごとく切実に願われたみ言に逆らい、真のお母様の誤った指示のみ言を深慮熟考することなく盲従しながら「真のお父様のアイデンティティと伝統を破壊するのに血眼になっている」と言うのが正解でしょう。
「真の父母様といえば、真のお父様と真のお母様をおいていう言葉」だというのは子供でも知っているあまりにも当然のことですが、真のお母様が真のお父様のみ言の遺志とは異なる道を行かれる場合にも無条件に成立する言葉ではないはずです。真のお父様と真のお母様が一体であられるという主張は、実際に体で行動される客観的な結果を通して検証・公認されるものです。真のお母様がどのような位相に立っていらっしゃろうと、それはあくまでも、そもそも真のお父様によって付与され成立する対象の位置であることを肝に命じなければならず、その点を忘れてしまった場合は、当然その同位権と同等権は喪失し得るという点を恐れる心情で反芻する必要があります。真のお母様もやはり、真のお父様の前に夫人として最後まで果たさなければならない道理と責任分担があられるだけに、その位相は単に過去に獲得された名分に頼っていては永続的に維持できないという事実を、忠心でもって進言しなければならないでしょう。
真のお父様が最大の遺業として残された八大教材教本を中心として、全体が共に実体的天一国を定着させていかなければならないこの重大な時期に、それを破壊しておきながら「私たちの共同体を組織的に破壊させる不純勢力」というのは、他でもない貴委員会のほうではないのでしょうか。

み21:真の父母様は一心・一体・一和の姿で霊界と地上界を治めていらっしゃいます。特に「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」で「今や真の父母様ご夫妻は最終一体を成して完成・完結・完了の基準の上に全体・全般・全権・全能の時代を奉献・宣布された」ように、真のお父様と真のお母様は霊界と地上において共に新しい時代の摂理を導いていっていらっしゃいます。同じように天一国経典編纂事業も、お二人が一つになって真の父母様のみ言と伝統相続という大きな計画の下に進められたものです。

祝21:ここに引用された宣布事件は2010年の時点で成されたものであるだけに、そのような一体の基準が今日の時点でも変わらずに維持されているかという事実がより重要です。この点は永遠なる価値を持つみ旨の道を行く私たち全員にも共通に該当する根本的問題です。最初の約束の基準を最後まで守っていく、実証的な事実が重要な鍵となります。
陳腐な虚偽の証拠を繰り返すのが気の毒に思えます。天一国経典編纂事業は、お二人が一つになって成されたものではありません。真のお父様が死の境をさまよわれる絶体絶命の状況で真のお母様が独自的に決定され、編纂委員会に指示されて始まったものであり、聖和される前に全く何の相談も裁可も得られなかった事です。真のお父様の聖和以後、お二人が霊的に、心情的に交流されることと今回のことは相関関係があり得ません。

み22:従って私たちは一寸の揺ぎもなく真の父母様が「天が私たちに下さった宝石のようなこのみ言を中心として全人類を救うのに総力を尽くしてくださることを願う」と願われるみ言を受け、『天聖経』と『平和経』を中心として天一国を定着させるのに全力投球、実践躬行していかなければならないでしょう。天の父母様と天地人真の父母様の祝福が天一国経典を訓読する皆さんの家庭と教会に共にあることを願います。まことにありがとうございました。

2013年7月5日
真の父母様み言編纂委員会


祝22:「『天が私たちに下さった宝石のようなこのみ言を中心として全人類を救うのに総力を尽くしてくださることを願う』と願われるみ言」は真の父母様のみ言ではなく、真のお母様のみ言です。み言編纂委員会は、真のお父様と真のお母様の呼称からしてはっきりと区分して使用されることを願います。心情的にお二人が一体となったといって、互いに異なる個体として厳然と霊・肉界に別々にいらっしゃる方々に対して曖昧な表現をして混乱させるのですか。真のお父様が聖和された後、真のお母様が地上で行われるあらゆる言行は、真のお母様がなさることです。
当然、真のお父様の全てのみ言は宝石のように貴く大切なものです。誰がそれを否認するでしょうか。ただし、改悪・改ざん・破壊された『天聖経』『平和経』だけを、あえて宝石に例えて混乱させないことを願います。天一国創国の始祖であり、国を起こした君主であられる真のお父様が自ら制定、伝授された経典を解体させて、別の偽書を中心としてその方が耕した国を定着させるということがあり得るでしょうか。そこにおいて、いかにお父様が立てられた伝統の相続が可能になるのというのでしょうか。
まだ遅くはありません。天地と子孫万代の歴史に対する畏敬の思いでもって今回の事態の過失を原状回復し、原点に戻って再び出発しなければなりません。今、み言編纂委員会が推進している事業は真のお父様が立てられた伝統の骨組みを崩す逆行であることを省察し、全面撤回することを勧告するものです。








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